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70位

手作りの銘品たち、継承し守り続ける匠の技の数々

山梨が誇る、山梨の伝統工芸品

数ある山梨の伝統工芸品の中から、代表的な6つの銘品をまとめて70位にランクイン!■まず最初は「甲州手彫り印章」である。「はんこの町」六郷町(現市川三郷町)に伝わる伝統工芸品、というか匠の技である。この六郷町、全国の印章生産高の50%を占める、というのだから驚きである。■次に紹介するのは、「大石紬」。富士河口湖町に江戸時代から伝わる伝統工芸、伝統の手織物である。艶やかな光沢と独特の彩りが美しい、そうである。■「雨畑硯」は、南アルプス連峰の麓、早川町の山奥に伝わる伝統工芸品である。なめらかな使い心地と造形美が中国の高級品「端渓硯」にも匹敵するといわれ、全国の専門家に愛用されている銘品、だそうだ。■山梨県の県庁所在地「甲府」から出荷されるジュエリーが、全国のジュエリー出荷額の3分の1以上を占める事実をご存じだろうか。甲府の宝飾品産業の歴史もまた古く、金峰山で水晶が発見されたといわれる約500年前に遡るそうである。「宝飾品」もまさしく甲府の伝統工芸品に他ならない。■郡内地方では昔から織物産業が盛んであった。今では衰退産業の代表みたいに言われているが、また事実そうであるが、富士吉田市の伝統手織物「甲斐絹」は、その美しい光沢としなやかな手触りで、今なお多くの愛好家を魅了する、伝統工芸品である。■最後に紹介するのは「甲州印伝」である。名前に「印」が付くからと言って、六郷町の印鑑とはまったく関係ない。鹿革に漆で柄付けを施す特殊な技法で作り上げられるバッグ、ポーチ、アクセサリー系の伝統工芸品である。名前の由来は、その技法がインドより伝来したことから「甲州印伝」と呼ばれる、のだそうである。



69位

奈良春日大社から贈られた7頭の親善大使

北口本宮冨士浅間神社の神鹿まつり「鹿の角きり」

「鹿の角きり」といえば「奈良」の専売特許といっても過言ではない。奈良の秋の風物詩、一大イベントである。奈良の春日大社内の鹿苑に隣接する楕円形の競技場のようなところで毎年10月に行われる。ある意味スペインの闘牛のような様相で行われる。とは言ってみたもののスペインの闘牛を現地で見たわけではない。
闘牛の話しはさておき、何故その奈良の秋の風物詩が山梨県富士吉田市の「北口本宮冨士浅間神社」でもとり行われるようになったのか、話しは昭和59年の奈良県開催「わかくさ国体」に遡る。奈良県は国体の使者として春日大社から7頭の鹿を、昭和61年「かいじ国体」を開催する山梨県にプレゼントしてくれたわけです。昭和60年10月6日、山梨県は富士吉田市の「北口本宮冨士浅間神社」に鹿遊園(ろくゆうえん)を設け、一般観光客にその親善大使達(鹿)を公開しています。となると当然、10月になったら「鹿の角きり行事」やらない手はありません。今では「北口本宮冨士浅間神社の神鹿まつり」でも、奈良の春日大社と同様に、はちまきに、はっぴ姿の男たちによる「鹿の角きり」が山梨県は富士吉田市の秋の風物詩となっています。


68位

南アルプスの麓に広がる雄大な風景。何千何万の花と星屑のテーマヴィレッジ

山梨県立フラワーセンター「ハイジの村」

山梨県立フラワーセンター「ハイジの村」は、アルプスの少女ハイジをモチーフにしたテーマパーク。
一年中咲き誇る花、南アルプスの広大な自然を背景に、ハイジ気分を味うことができる。
パーク内ではブライダルも行うことができる。打ち上げ花火やイルミネーションで彩られ、ロマンティックな結婚式になることは間違いない。
テレビアニメ「アルプスの少女・ハイジ」の世界を4メートル幅の大ジオラマで再現した展示室や、アルムのおんじの仕事部屋などハイジをテーマにした施設、ハイジが大好きな白パンなどいろいろな焼きたてパンを味わえるお店、キャラクターグッズがそろうお店などがあり、ハイジファン?!にはたまらないハズ?!
2006年4月1日に「山梨県フラワーセンター」がリニューアルオープン!「ハイジの村」として生まれ変わったわけだ。もっと以前の話しだが「ハイジの村」の前にはひまわり畑が広がり、映画「いま会いにいきます」のロケ地にもなった。パンフレットには「一年中綺麗な花が咲き乱れています」とはあるが嘘だ。さすがに冬は写真の通り、色気が少ないし、閑散としている。でもそれがヨーロッパの田舎の自然風景のようで、よりリアリティのある「ハイジの村」の雰囲気を醸しだし、また一段と渋くてよいと思う。



67位

白籏の写真は、自らの登山家としての高い技術なしには成立し得ない

山岳写真のファンタジスタ「白籏史朗」

山岳写真家「白籏史朗」は山梨県大月市生まれだ。
富士山の写真家として名高い岡田紅陽に師事した後1962年に独立し、南アルプス、富士山など日本の山々の写真を主体に自然風物、風景写真を発表。1966年からはアフガニスタン中部ヒンズー・クシュ山群をはじめ、ヨーロッパ・アルプス、ヒマラヤなど、世界の名峰を撮り、ワールドクラスの山岳写真家としての地位を確立した。
1977年、「わが南アルプス」「尾瀬」「富士山」で日本写真協会賞受賞。
1984年に開設された山梨県早川町立「白籏史朗山岳写真記念館」や、新潟県越後湯沢町の「白籏史朗世界山岳写真美術館」、福島県南会津郡檜枝岐村の「白籏史朗尾瀬写真美術館」山梨県大月市立「大月市郷土資料館」などで作品を展示している。 1987年には山人会が制定する、山梨県文化功労者表彰、前田晁文化賞を、1990年には、山梨日日新聞社が制定する「野口賞」を受賞。 等々、数々の賞を受賞している。
きわめつけは、いろんなサイトで解説しているのでそのまま引用するが、「2000年スイス、キング・アルバート1世王記念財団よりキング・アルバート1世功労勲章を、山岳写真家として世界で初めて受賞」というものだ。
失礼ながら、正直なところ極めつけなのかどうかよくわからない賞であるが、白籏史朗の写真は、数多くの受賞云々に関係なく、神秘的な輝き、幻想的な魅力を感じる。
白籏は富士山について「そして、今日もまたやって来た。登るたび、いつも異なる表情を見せる」とその魅力を語っている。
白籏は、70歳を迎えた現在もなお、第一線で活躍を続け、数多くの力強い作品を発表し続ける。


66位

山間に霊峰富士の御峯を臨む村に伝わる素朴な民俗芸能

塩平の獅子舞

塩平の獅子舞

迫力ある獅子舞やお囃が町を練り歩き、道祖神に「お山」と呼ばれるみごとな飾りが施される。山梨市牧丘は塩平に古くから伝わる小正月の伝統行事、「塩平の獅子舞」で1年の安全を祈願する。
去年は何年か振りに塩平に嫁が来た。獅子を被り舞うのは嫁を迎えた当人、ご主人だ。全国放送のテレビ局も取材に来ている。何時になく賑やかな「塩平の獅子舞」だ。
この和やかな中にも厳粛に執り行われる道祖神祭り「塩平の獅子舞」をご説明するにあたり、牧丘町教育委員会の解説パネルを引用させていただく。
「‥‥塩平集落は昔、公卿の落人により開拓された所といわれ、公卿平、公卿の墓等の遺跡がある。‥‥獅子舞の種類には三番叟、ご幣の舞、剣の舞、狂の舞、幕の舞がある。昔はこの外に鳥刺踊り、七福神、たたら万歳や歌舞伎狂言などもあり、素朴な山村の民俗芸能として親しまれている。‥‥」



65位

一括りにして恐縮ですが、山梨県下の高校スポーツ界の勇

日川高校のラグビー部と、韮崎高校のサッカー部

その伝統と数々の実績で、山梨県下の高校スポーツ界盟主の座を二分する高校をご紹介したい。「山梨県立日川高校ラグビー部」と、「山梨県立韮崎高校サッカー部」である。
まずは韮崎高校サッカー部、いわずと知れた「世界の中田英寿」、ヒデの母校である。最近、韮高同窓会はプロチームばりの韮高サッカー・サポータークラブ公式サイト「韮高オーレ!」を開設した。この中に「韮高サッカー2005年宣言」という勇ましいコンテンツを見つけた。更にその中に、「2015年までに全国制覇を目指す韮崎高校サッカー部を応援します」という気合いの入った一文を見つけた。
韮高サッカー部恐るべしである。いや、韮高同窓会恐るべしというべきだろうか。
続いて日川高校ラグビー部、サッカーの中田とは比べられないが、今最も旬と言えるラガーがいる。ラグビーのワールドカップは今年9月から10月にかけてフランスで開催されるが、2007年2月5日現在、2007年度日本代表スコッドに選出されている「有賀剛」が日川高校ラグビー部出身の現役選手では最強だろう。もちろん過去には、日本代表キャップ22のスーパースター藤原優、ラグビー史に残る名FL梶原宏之(現山梨県立桂高校ラグビー部監督)、日本代表キャップ15のトライゲッターWTB有賀健(有賀剛の父)等々、OBアスリートは枚挙に暇がない。
「山梨県立日川高校同窓会」のサイトもご紹介しておこう。韮崎のサッカーサポータークラブと対比すると、泥臭さい、が、親しみがもてる。


64位

山梨2大高原地帯、八ヶ岳南麓と富士山麓は、四季折々の高原スペクタクルを魅せてくれる。

浅尾ダイコンを筆頭に「高原野菜」

長さ53センチの長芋

山梨県北都市明野村は日照時間日本一なのだそうだ。その日本一の太陽の恵みと、高原の爽やかな気候と、肥沃な茅が岳の火山灰土の畑で育った明野村浅尾地区特産のダイコン、その名も「浅尾大根」、山梨県が誇る農産物の一角、「高原野菜」の代表選手である。
左の写真はダイコンならぬ50センチ超の「長芋」である。誤解せぬよう願います。それにしても文字通り長いです。
山梨の「高原野菜」を語る前に、まず山梨県の地形的、気象的背景の説明を若干。山梨県は本州のほぼ真ん中にあり、富士山や北岳、八ヶ岳、秩父山系などの山々が周囲を固めます。その中心、甲府盆地は、昼と夜の気温差が大きく、土地の水はけが良いなど、果物づくりに適しているので主に盆地の東部、西部では果樹栽培が盛んに行われてきました。盆地南部では施設野菜や特産露地野菜、盆地北西部では水稲の農業が営まれています。
そして八ヶ岳南麓や富士山麓では畜産や「高原野菜」の栽培が盛んである、という感じである。
その八ヶ岳南麓のほうでは毎年11月に、山梨県北杜市明野町「明野ふるさと太陽館」で「浅尾ダイコンまつり」(アサオダイコンマツリ)が開催される。浅尾ダイコンを引き抜く体験ができるイベントだ。
もう一方の高原野菜山地、富士山麓は鳴沢村でも、村や農協が特産品である高原野菜の一番美味しい収穫時期に合わせて、とうもろこし、じゃがいも、キャベツ、大根などの高原野菜狩りや、朝採りの新鮮な野菜の直売コーナーなどの催し物で賑わう。
もう一つ八ヶ岳の裾野、山梨県北杜市大泉町で10月に開催される高原野菜関連のイベント「フェスタまきば&北杜市大泉高原サラダ祭り」を紹介しておこう。 秋の穏やかな日差しの中、八ヶ岳高原で、地元産甲州牛のバーベキュー、新鮮な高原野菜やワインなど、山梨の食を満喫できる。広大な牧草地でのオリエンテーリング、動物とのふれあいコーナーや搾乳体験等、非日常を堪能できる。
八ヶ岳の裾野は、集約酪農地域に指定され、新鮮な牛乳を造る牧場や、キャベツやレタスなど高原野菜を扱う農村地帯。四季折々の高原スペクタクルを魅せてくれる。



63位

神は舟でやって来た故事にならい厳かな儀式

甲斐湖水伝説と「神部神社の舟引き」

神部神社の舟引き 南アルプス市下宮地地区の「神部神社」に古くから伝わる舟引祭は、この地方が湖水であった頃、大和(現在の奈良県)の三輪神社から三輪明神を舟で遷座したという故事から生まれた、という。
「甲府盆地が湖だった」という伝説はかなり面白い。甲府市のサイトが「穴切神社蹴裂明神」の解説に「日本伝説集/山中共古先生の報告より」と引用している山中共古の文章をまた引用させてもらう。
‥‥‥甲斐甲府の地は、昔、一面の湖水であって、冷たい水の面が、富士の頂きを逆様に映していた。地蔵菩薩がこの土地の様子を見て、「この水を除けて、陸地を造ったら、人も住まれよう、畑も出来よう、どうにか成らぬものか」と二人の神様に相談をされる。神様たちはこれを聞いて、「いかにも道理」と賛成して、一人の神様が山の端を蹴破って、今一人の神様が山を切り穴を開けて、その処に一条の水路を開いて、大湖水の水を今の富士川へ落とさせる。それを見た不動尊は、引っ込んではいられぬと、これも川瀬を造られる。この二仏二神のお陰で、甲府の土地は現われたのである。山を切り穴をあけられた神は今、甲府の西に、穴切神社としてまつられ、山を蹴破られた神は、蹴裂明神として知られている。瀬立不動が川瀬を造った不動様で、今、甲府の東光寺にある稲積地蔵というのが、はじめに云いだした地蔵様である。もとは、法城寺に在ったのを、後に東光寺に移したのである。その証拠には、法城の二つの文字は、水を去り土を成すと読まれるではないか。‥‥‥
「その証拠には」のくだりでは、ホントかよー、と叫んでしまうが、「甲斐湖水伝説」と「神部神社の曳舟神事」は日本古代史のロマンを感じさせてくれるじゃありませんか。


62位

国指定重要文化財「阿弥陀三尊像」を擁する武田始祖「信義公」の菩提寺

武田始祖「信義公」の菩提寺、鳳凰山「願成寺」

武田始祖、信義公の菩提寺である。現在曹洞宗に属する。
縁起によると、宝亀2年(771)心休了愚法印によって開創された京都祇園寺の末寺と云われている。延長6年(928)地蔵菩薩を安置して願成寺と号したという。
天正10年(1582)の織田信長の兵火により伽藍は焼失。幸にも仏像は焼失を免れ、重要文化財の指定を受けている。その平安文化を伝える寺宝「木造阿弥陀如来及両脇侍像」は、中央に「木造阿弥陀如来像」、その両脇に「観世音菩薩」「勢至菩薩」が控え、荘厳で上品な姿に心が洗われるようだという。約900年前に京都で活躍した仏師、定朝の流れをくむ人の作と見られる。
武田信義公の墓と伝えられる大五輪塔は本堂とほぼ並んだ左手にあり、鎌倉時代初期の塔形を完全に近い姿で残している。信義は新羅三郎の曾孫にあたり、 武田八幡宮の社前で元服し、武田氏を名乗った、といわれる。



61位

「目玉のないイベント」と言われるカンティフェア。その言葉の本当の意味は‥‥‥

大草原で繰り広げられる「ポールラッシュ祭」
〜八ヶ岳カンティフェア〜

「ポールラッシュ祭」のポールラッシュとは、人の名前だ。「清里の父」と呼ばれるアメリカ人、故ポールラッシュ博士のことである。彼が何故「清里の父」と呼ばれるに至ったのかを述べ始めると長い話しになりそうなので、彼が清里に立ち上げた教育キャンプ場、その名も「清泉寮」と、を中心に実践的なモデル農村コミュニティーづくりを目指して、1948年に創設した「キープ協会」のサイトをご参照いただきたい。
1925年(大正14年)、関東大震災で破壊された東京と横浜のYMCA会館を復興させるため来日したポールは、以来、日中戦争、太平洋戦争という歴史の大きなうねりの中で、不屈のフロンティア精神と崇高なボランティア精神を発揮して、八ヶ岳南麓、清里を拠点に戦後日本の復興と民主化にその生涯を捧げたわけです。
そのポールラッシュ博士に感謝して、そして一年の収穫に感謝して、毎年10月中旬に清泉寮前牧草地で行われるお祭、それが「ポールラッシュ祭」〜八ヶ岳カンティフェア〜であります。
広々とした自由広場、大草原には、「やまなしクラフト市」というクラフトゾーンがあったり、コンサートや太鼓の演奏で賑やかな野外ステージがあったり、おいしい物満載の食事コーナー、ポニーの草競馬、アメリカンフットボール体験‥‥‥、「清里の父」ポールラッシュ博士、本当にありがとう!です。


60位

大菩薩峠の麓、鬱蒼とした 杉木立の奥に秘められた武田家再興の夢残!

武田軍旗を護る、裂石山「雲峰寺」

裂石山「雲峰寺」

武田家滅亡の後、武田家家宝を託されたのが、山梨県甲州市塩山にある裂石山「雲峰寺」(うんぽうじ)。
どのような武田家家宝が所蔵されているのかと言えば、まず、後令泉天皇から清和源氏源頼義へ下賜されたといわれる「日本最古の日の丸の旗」、天正10年(1582)、武田勝頼が天目山で自刃したあと家臣が再興を期して密かに当寺に納めたといわれる、武田の軍旗「孫子の旗」(風林火山)、「諏訪神号旗」、「馬印旗」等々である。
所蔵品のみならず、本堂、仁王門、書院、及び庫裡は、昭和30年代に諸堂の解体修理がなされ旧規に基づいて復元されたとはいえ、武田信虎の再建した室町時代の建築であり、すべて重要文化財である。
天平17年(745)行基が開いたとされるが、その開山の言い伝えも華々しく「行基、修行中に落雷があり石が裂けた後に十一面観音が出現。その像を萩の木に刻んで開山した」そうだ。
ついでながら、県指定文化財天然記念物「雲峰寺のサクラ」もある。市指定文化財書跡「雲峰寺文書十点」もある。文化財の宝庫だ。
もう一つ、ついで話をさせていただくと、「大菩薩峠」の中里介山はこの寺に滞在して「大菩薩峠」を書いたといわれる。つまり、武田軍旗を護る、裂石山「雲峰寺」は、大菩薩峠にほど近い場所、国道411号線を青梅街道に通じる大菩薩峠への登山口方面へ少し入った道筋の山の中、小説を書くために隠るには絶好の静かな山の中、に位置している。



59位

関東武士団「甲斐源氏」の名を後世に残す三種三様の「流鏑馬」

山梨県にある三つの「流鏑馬まつり」

一つ目は、南アルプス市小笠原、滝沢川両岸を約1キロに渡りアヤメが咲き誇る5月上旬、南アルプス市「アヤメフェア」というイベントの一環で「流鏑馬」が披露される。時は平安末期から源平の時代を経て鎌倉幕府幕開けの頃、この辺り一帯を舞台に活躍した「甲斐源氏」一族の一角「加賀美遠光」、その長男は秋山を本拠地として「秋山光朝」、次男は小笠原を本拠地として「小笠原長清」。この親子ことのほか弓と馬の武術「弓馬術」に秀で、特に小笠原長清は、源頼朝の信頼篤く「流鏑馬」の作法を制定する。その伝統は子孫たちにより脈々と受け継がれ、やがて小笠原流礼法、小笠原流弓馬術として現在に知られている。
二つ目は、毎年4月29日に富士河口湖町勝山村「冨士御室浅間神社」で催される「流鏑馬神事」である。こちらの流鏑馬は、源頼朝以来の馬上武道を伝える唯一の流派と説く「武田流」が務める。この流派については社団法人大日本弓馬会「武田流弓馬道」サイトをご覧いただくのが早いかと‥‥。このサイトから少しだけ「流鏑馬」の定義について引用させていただく。
‥‥‥一般に「流鏑馬」とは騎射の一種で、馬に乗りながら鏑矢を射流して板的を射当てる競技であるかのように解説されてはいるが、流鏑馬本来の姿は、今から約千四百年前に神事として起こった「矢馳馬」(ヤバセメ)の訛化であり、広義には騎射の一種ではあるものの、それは決して競技に類するものではなかった‥‥‥
とある。
三つ目は、その「神事として神社に奉納されるもの」という部分をことさら前面に押し出してPRしているのが富士吉田市「小室浅間神社」で毎年9月19日の例大祭に行なわれる「流鏑馬」である。元々勝山村との共同開催だったそうで、安元2年(1176)から延々と続き、‥‥享禄3年(1530)武田家家臣板垣信賢の達により各自の村で行われるようになった。‥‥そうだ。(‥‥部分は冨士山下宮小室浅間神社サイトより引用)
勝山村の方は明治30年に一度途絶え、昭和55年に復活から、武士の「流鏑馬」になってしまった、と冨士山下宮小室浅間神社は言う。
いずれにしても、山梨における「流鏑馬」、馬上から弓を引く古式ゆかしい妙技は、後三年の役(1083~7)の折り、源義家の弟、新羅三郎義光が奥州で苦戦する兄に加勢のため、この甲斐で兵、馬を集めたことを発祥とする「甲斐源氏」の足跡を、くっきりと現代に刻んでいるのである。


58位

8時ちょうどの「あずさ2号」で、私は、私はあなたから旅立ちます。

JR中央線特急、「あずさ」「かいじ」「スーパーあずさ」

特急「スーパーあずさ」

筆者、鉄道マニアでもなんでもないが、長いこと山梨県から東京都内へ通勤しているので、中央線には、特に特急には大変思い入れが深い。特にその昔、20代の頃は、都心まで通っていたため朝(往路)こそ各駅停車で出かけたが、帰りはすし詰め満員電車で立って帰る気力もなく、ほとんど毎晩「あずさ」か「かいじ」に乗っていた。今でこそ通勤定期が効くらしいが、当時は特急に定期は通用せず、定期を持っているのに乗車券と特急券を買っていた。
学生の頃に流行った狩人の「あずさ2号」は、筆者の年代にとってはあまりにも有名だ。そんなことどうでもいいんだけど「あずさの偶数番号は上りだけだからあの歌詞は事実じゃない」とか蘊蓄をたれてた30年前が懐かしい。実際は、歌がヒットした翌年に「あずさ2号」は上りオンリーになったようだ。
その「あずさ2号」、どうやら2004年3月13日のダイヤ改正で定期列車として復活したらしい。松本を6時4分発の上りではあるが。



57位

城下町都留の歴史と伝統を今に残す由緒正しき行事

「八朔祭り(大名行列)」と「お茶壺道中」

郡内地域の伝統ある祭りを一つ紹介しよう。勝山城と谷村城の城下町、山梨県都留市谷村の町に江戸時代初期から続く、生出(おいで)神社の秋の例祭「八朔祭」だ。毎年9月1日に盛大に行われ、地元では親しみを込めて「おはっさく」と呼ばれている。
見どころは、総勢130名にも及ぶ大名行列だ。加賀、箱根、三条市等、全国各地、大名行列も様々あるが、歴史の古さと由緒は都留の「八朔祭」の右に出るものはないと言われる。
この「大名行列」、始まりは谷村藩主の秋元家が、秋元但馬守泰朝、2代越中守富朝、そして、秋元家の中興の祖と仰がれる3代喬朝の3代72年間にわたる統治、城下町の整備、文化の発展に、農民達が感謝の気持ちと五穀豊穣を願って十万石の格式に仕立てあげて表したとされている
「大名行列」とともに、葛飾北斎など江戸の有名な浮世絵師の手による飾り幕の絢爛豪華な屋台が繰り出し、「八朔祭り」を大いに盛り上げる。
この屋台と飾幕(市文化財)は、都留市博物館「ミュージアム都留」に展示されている。
そして、山梨県都留市の歴史を伝えるもう一つのイベント「お茶壺道中」は、毎年10月の最終日曜日に都留産業祭りで披露される。
江戸時代、徳川将軍家御用達の茶を江戸城に運ぶ宇治採茶使一行のことを「茶壺道中」と呼んだらしい。そしてその道中、茶の一部をこの甲州谷村「勝山城」の茶壺蔵へ格納し熟成させたと言われる。
慶長18年(1618)〜幕末の慶応3年(1867)まで250年に渡って続いたこの「茶壺道中」を忠実に再現したイベント「お茶壺道中」で、江戸時代徳川将軍の権威を実感することができる。


56位

歌舞伎と山梨の深い関係を物語るかのような民俗芸能

太鼓の上の歌舞伎役者たち「藤木の太鼓乗り」

藤木「太鼓乗り」

「藤木の太鼓乗り」を実際に見るまでは、「藤木の太鼓乗り」という名前だけでこの民俗芸能をイメージしていた。 「もしかしたら、筒状の太鼓の上にポンと裸足で飛び乗り、サーカスの曲芸よろしく、あの玉乗りの様に太鼓を転がし、叩き手はバチを手に持ち、転がる太鼓を右往左往しながら追い掛けて叩きまくる‥‥、」のかしら?と。
そんなはずないよなあと思いながら、しかしちょっと期待しながら、1月14日夜7時、甲州市塩山の「放光寺」を訪れた。
予想は大きく外れ、実物の「藤木の太鼓乗り」という民俗芸能は、左の写真の通り、大きな太鼓を打ち鳴らし、その上に乗った歌舞伎役者の格好をした若者、いや演じるわけですから歌舞伎役者そのものなのですが、歌舞伎の一場面をかけあいで演じ見栄を切る。というもので、この日の出し物はあの有名な「白波五人男、稲瀬川勢揃いの場」だったのです。
こんなお祭りでもないと、今での若者は、「問われて名乗るもおこがましいが」とか、「知らざぁ言って聞かせやしょう」とか、なんのこっちゃらさっぱりわからなくなるんでしょうねぇ。
そして歌舞伎といえば、山梨の市川三郷町は「市川団十郎家」の発祥の地として知られている。その市川三郷町(旧三珠町)には、歌舞伎文化公園があり、そこには、初代市川團十郎の曾祖父に当たる堀越十郎が甲斐武田氏の武将一条信龍に仕えていた、という史実に基づいて立てられた「市川団十郎発祥の地」の発祥碑がある。「市川団十郎」といえば名実共に江戸歌舞伎を代表する役者の名家である。
歌舞伎役者ときいてすぐ、歌舞伎ものといわれた粋でお洒落な遊び人をイメージして憧れてしまう私の様な山梨県人にとりましては、大変誇らしい発祥の地であります。



55位

もしかしたら山梨県という商品の広告コンセプトをプレゼンテーションしているのかも‥‥

山梨の名広報担当、直木賞作家「林真理子」

山梨県出身の直木賞作家は、木々高太郎、檀一雄、林真理子の三人がいる。その中でこのランキングに取り上げたのが「林真理子」であるのには、少々わけがある。簡単に言っちゃえば、林真理子が書く小説やエッセイには、山梨のことがたくさん登場する、ということだ。それからもう一つ、個人的な話しになるが、林真理子がコピーライターの卵だった頃、宣伝会議のコピーライター養成講座というところで、私、同じ教室でコピーライター目指してました。彼女が、「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞を受賞する9年程前のことでした。そして、エッセイ集「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を発表する5年程前のことでした。
そんなことはどうでもいいが、彼女は山梨県立日川高等学校出身で同校の同級生にラグビーのスーパースター藤原優がいる。
こんなこともどうでもいいですか。とはいえ同級生が違う分野で名を挙げるというのも珍しいことではないだろうか。
文学者としての「林真理子」紹介は、山梨県立文学館のサイトをご覧下さい。


54位

トップページの左上、この写真のスペースは年間72回の写真入れ替えを予定して

江戸時代から続く12通の舞「田野十二神楽」

田野十二神楽

甲州市大和町。JR中央線でいうと「甲斐大和」という駅で下車である。笹子トンネルを抜けてすぐの駅で、以前は「初鹿野」(はじかの)という駅名であった。
この甲州市大和町には古くから継承されてきた個性的な祭りがいくつも残されているという。例えば、共和の「観音祭り」や、天目の「魔利支天祭り」、宮下の「諏訪神社祭礼」、水野田、丸林の「のろし」など。そして、この田野地区に江戸時代から続く「田野十二神楽」である。
甲州市のサイトを見ると、‥‥‥明暦2年(1656)、伊勢講に行けない人々のために伊勢の国から当地に移されたもの。‥‥‥とあるが、伊勢の国の何が、どの部分が、移されたというのだろう。
「田野十二神楽」は、それこそ田野の住人が総出で、と思われるくらい大人数が役者として、または舞台裏で準備を手伝う人として、あるいは各方面の世話人として、それこそ村を挙げて関わって繰り広げている公演時間およそ1時間半の一大エンターテイメントだ。神楽演目に12段の舞があることから「十二神楽」と称されている。何の予備知識も持たずに見たが、プロローグ〜物語〜エピローグの流れだけは何となくつかめた。ではその物語とはいったいどんなストーリーがあるのかは‥‥、あとで解説文でも探そうと思ったわけである。
再び甲州市のサイトを引用させていただくと、‥‥‥その名の通り、12の舞から成り、昔から奉仕するものは斎戒沐浴し衣服を改め、節制を保って臨むこととされています。‥‥‥
ますますわからなくなってしまったが、いずれにしてもなかなかな民俗芸能である。
山梨県の無形文化財に指定されている「田野十二神楽」は、毎年1月14日の道祖神祭りと、4月11日の氷川神社の祭典に奉納されるそうだ。



53位

オツオリの伝説と共に受け継がれる「青い疾風」の雑草魂!

山梨学院大学陸上競技部の箱根駅伝出場

昨年、2006年8月30日に、ジョセフ・モガンビ・オツオリ氏が母国ケニアで交通事故に遭い逝去した。享年37歳という若さであった。
山梨学院大学陸上競技部の歴史はそんなに古いものではない。
1986年創設、なので約20年前のことだ。1987年、創部2年目で箱根デビューとなる。第63回箱根駅伝である。
その翌年、1988年、オツオリが入部してきた。オツオリの箱根デビューは当然その翌年1989年の正月、1年生ながら花の二区で区間賞を獲る。オツオリ伝説の始まりである。この年、総合7位。翌年のシード権を獲得する。
そして、オツオリにとって最後の箱根となる1992年第68回大会で、山梨学院大学陸上競技部は、創部7年目にして箱根を制覇することとなる。
この場をお借りしてジョセフ・モガンビ・オツオリ氏のご冥福をお祈りいたします。


52位

歴史と伝統、甲斐の名水と熟練の杜氏たちの情熱が醸し出す芳醇な味わいの数々!

菊星、七賢、谷櫻、春鶯囀、笹一など「甲斐の地酒」

七賢

山梨の地酒をいくつか取り上げたい。どうしても取り上げたい。山梨の酒といえば「ワイン」の方がまず思い浮かぶかもしれないが、日本酒(地酒)も捨てものではない。いや、捨てたものじゃあないどころかこちらの方が余程歴史がある。
■中でも山梨県内で一古い歴史を持つ蔵元といわれる甲州市の田辺酒造株式会社は、延宝元年(1673年)創業というから、334年の歴史を持つわけだ。
■歴史の話しをすると、北杜市は南アルプス甲斐駒山麓、白州尾白川の花崗岩層を透した清冽な名水を擁する、旧甲州街道白州台ヶ原宿の山梨銘醸株式会社は、自社サイトで、 ‥‥‥江戸中期寛延3年(1750)、信州高遠において酒造業を営んでおりました北原伊兵衛が江戸の往復の途次この地、白州の水のすばらしさに分家を出す事を決意し当時の村役人等に依頼し、酒株を買い受け醸造を創めたと当家に伝わる古文書に残されております。‥‥‥ と創業のエピソードを語るように、257年もの伝統を受け継いでいる。「七賢」のブランドで名高い。
■同じく北杜市の谷櫻酒造有限会社。こちらは同じ北杜市でも八ヶ岳の南麓、ブランド名「谷櫻」、冬の間に一年分を造る大寒仕込みだ。創業は、嘉永元年(1848)だそうで、159年の歴史ということだ。
■山梨の南、富士川を臨む増穂町の株式会社萬屋酒造店。創業は寛政2年(1790)、217年前だ。銘酒「春鶯囀」(しゅんのうてん)は、6代目蔵元と交流のあった与謝野晶子がその優雅な味わいから命名したというブランドだそうだ。富士川での舟運が盛んだった頃は知る由もないが、その昔から受け継がれる清酒だと思うと感慨深いものがある。
■最後に、創業は大正8年(1919)だからさほど古いわけではないが、郡内の酒蔵も一つ紹介しておきたい。大月市笹子町の笹一酒造株式会社である。甲州街道随一の難所「笹子峠」を先に控える笹子宿の酒蔵である。全国新酒鑑評会において平成11年から3年連続金賞を受賞したそうで、山梨では珍しい山廃仕込の「笹一」ブランドだ。

山梨県内のいずれ劣らぬ名水と、醸造条件に適した自然環境の中で醸し出さる、歴史と伝統を受け継ぐ山梨の地酒、たまりません。



51位

武田信玄の軍事用路「甲斐九筋」のひとつ秩父往還「雁坂みち」を現代に実感させるトンネル

「雁坂トンネル」と「秩父大滝村との交流」

2007年1月29日付山梨日日新聞の1面トップは、「雁坂トンネル通行量漸減---県公社、このまま続けば大幅赤字---圏央道へ流出も懸念」というものだった。
山梨日日新聞はご存じ「サンニチ」の愛称で知られる地方紙。それはご存じの方も多いだろうが、果たして「雁坂トンネル」をご存じの方はどれ程いるのだろうか。
それと同時に、山梨県と埼玉県が隣り合わせの関係だということをご存じの方はどれ程いるのだろうか。その県境を接する山梨県山梨市(旧東山梨郡三富村)と、埼玉県秩父市(旧秩父郡大滝村)を結ぶ国道140号線の有料トンネルが「雁坂トンネル」である。
通行量のことはさておき、その昔は武田信玄の軍事用路「甲斐九筋」のひとつとして、峠をまたいでの武州の秩父盆地と甲州甲斐の国との行き来はあった。行き来はあった、と簡単に言うもののこの雁坂峠、標高2082mという半端じゃない山脈越えである。「日本三大峠」に数えられている。因みに「日本三大峠」他の二つは、北アルプス越えの「針ノ木峠」(標高2541m)と、南アルプス越えの「三伏峠」(標高2580m)である。
この国道140号、山梨県側は秩父往還(雁坂みち)といい、埼玉県側は彩甲斐街道というらしいのだが、1998年4月に「雁坂トンネル」が開通するまで、車が通れない国道であったそうな。
車がなければどこにも行けない現代人、特に現代田舎人の私、トンネル開通の1998年当初、「通行料金ちょっと高くねー」かなんかつぶやきながら秩父は大滝村に抜けた時の感動は今でも忘れられない。「埼玉ってすげー近いじゃねえか」ッてことだ。


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