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番外編

ベスト100にランクインしなかった山梨の温泉をまとめて紹介しておこう

歴史と泉質を誇る個性豊かな温泉と、由緒ある温泉宿の数々

約1,300年前に開湯されたと言われる日本有数の古湯「西山温泉」、約1,100年前、弘法大師によって発見されたと言われる「湯村温泉郷」、塩ノ山の麓で約650年の歴史を持つ「塩山温泉郷」等々の歴史ある温泉から、平成6年に湧出し周囲の旅館、ホテルに引湯され誕生した「富士河口湖温泉郷」のような新しい温泉郷まで、山梨が誇る自慢の名湯の数々は枚挙にいとまがありません。
他にも、増富温泉郷、積翠寺温泉、春日居温泉、三富温泉(川浦温泉)、山中湖温泉など、今回涙をのんでベスト100に入れることができなかった個性豊かな温泉達を、番外編として、トップバッターで採りあげさせていただきました。
個々の温泉、あるいは温泉宿の詳しい情報は、追々(いつになるやら未定ですが)「山梨の秘湯・名湯・隠し湯めぐり」なる企画でご紹介していけたらと考えております。


101位

ご本人が山梨出身であったなら、ベスト20入りは間違いないところであったが‥‥今回は次点

樋口一葉の両親は甲斐国山梨郡(現甲州市)の農家の出である。

樋口一葉

樋口一葉の両親、樋口為之助(則義)、多喜は、塩山(現在の山梨県甲州市)の農家出身で共に慈雲寺の寺子屋に通っていたそうです。そこで知り合った二人は、結婚を許されなかったため駆け落ちし江戸にでたという説があります。一葉は明治5年3月25日、東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の生まれですが、その両親が通った故郷の寺子屋があった山梨県甲州市塩山の天龍山「慈雲寺」の境内には、樋口一葉の文学碑があり、その付近の道は「一葉のみち」と名付けられ、地元の人達に今も親しまれています。
「たけくらべ」「にごりえ」などの小説で知られる作家樋口一葉ですが、その生涯は短く明治29年11月23日に24歳という若さでこの世を去りました。その肖像画は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり五千円札の新デザインとなったわけです。そしてその元となった左の写真は、山梨県立文学館に保管されています。



100位

樋口一葉の上位に、慈雲寺、それも樹齢300年のイトザクラを挙げないわけには行かない。

天龍山「慈雲寺」の天然記念物「イトザクラ」

慈雲寺の「イトザクラ」

慈雲寺のイトザクラは、昭和46年に甲州市の天然記念物に指定されています。ウバヒガンの変種で、樹齢は三百年程と言われ枝をよく四方に垂らしていて、糸が垂れるような形で花色は淡紅色春には美しい花を咲かせて楽しませてくれます。
この天龍山「慈雲寺」は、南北朝時代の慶応年間(1338〜1342年)に京都と鎌倉を往き来して、京都の天龍寺などを開山した僧として有名な夢窓国師によって開創されたと伝えられています。



99位

南アルプス市の櫛形山の山頂付近には、東洋一のアヤメの大群落がある。

幻想的なアヤメの大群落「櫛形山アヤメ平」

南アルプス市の櫛形山、標高2,052メートルの山頂付近に「アヤメ平」と呼ばれる東洋一のアヤメの群生地がある。開花時になると325万本ものアヤメが、高山の幻想的な空気と相まって、それこそファンタスティックに、美しく咲き乱れる。
毎年7月には南アルプス市主催のアヤメ祭りが開催され、毎年1,000人もの登山客がアヤメ平を目指し山を登る。


98位

明治時代の貴重な建築物

藤村式建築物

山梨には、明治6年から20年まで山梨県令(知事)を務めた藤村紫朗が推奨した擬洋風建築「藤村式建築物」という歴史文化財があります。
代表的な例としては、武田神社境内の「藤村記念館」や、旧甲州街道勝沼宿の「旧田中銀行」などが、貴重な明治の面影を今も残しています。


97位

300年前の江戸時代に建てられた国指定重要文化財

国の重要文化財「安藤家住宅」

安藤家住宅

南アルプス市にある「安藤家住宅」は、300年前の江戸時代に建てられた国指定重要文化財である。
安藤家は江戸時代には西南湖村の名主を務めた名家。また、安藤家の祖先には武田家の家臣もいる。
敷地内の主な建物は、主屋、表門、南蔵、北蔵、文庫蔵で、主屋と表門は茅葺になっている。
庭の黒松は樹齢400年で、天然記念物。この松はもともと滝沢川左岸にあったもので、江戸時代に水害の多発する滝沢川から安藤家住宅に移植したものである。明治時代に避雷針がつけられたことから「避雷針の松」と呼ばれる。



96位

同じ笛吹川の近くで生まれ、飯田蛇笏は山廬に生涯起居し、深沢七郎は生涯遍歴した。

「飯田蛇笏」は、境川の山廬に生涯起居した。

「飯田蛇笏」は、東八代郡五成村(現笛吹市)出身の俳人。山梨の自然を詠んだ数々の名句を生み出した。
「芋の露連山影を正しうす」等の代表作は、山梨県立文学館に展示されている。
昭和33年5月8日に当時「笛吹川」を中央公論社から刊行したばかりの「深沢七郎」が、境川の山廬に飯田蛇笏を訪ねた。その時のことを蛇笏は、(楢山節考の著者深沢七郎氏来訪)「炉語りや五月八日の夜の情」と詠んだ。この句は蛇笏の没後刊行された最後の句集「椿花集」(昭和41年5月角川書店)に残されている。


95位

山梨県は今年「風林火山」色一色で賑わっている、いや賑わおうとしている。

2007年度NHK大河ドラマ「風林火山」と「風林火山館」

風林火山館

いよいよ今年始まったNHK大河ドラマ、「風林火山」のロケ地となったのが、北杜市に建てられた風林火山館。武田信玄の本拠地、躑躅ヶ崎の館を再現している。
敷地内には、主殿、櫓、御番所、的場などがあり、館の周りには掘や石垣を本格的に造成し、その外側には長屋や冠木門を配列した城下町になっている。
ロケが終わってからは一般に公開されており、城下町の長屋には、清里の牛乳、ハム、ソーセージ、ワインやほうとう、勘助饅頭など、地元特産品の売店が入っている。



94位

日本でも指折りの"美しい"と称えられるゴルフコース

富士山麓のなだらかな地形に広がる「鳴沢ゴルフ倶楽部」

自称「アベレージゴルファーの鏡」である私の好みから言わせてもらうと、グリーンは大きめのベントの1グリーンがいい。ついでに林間コースがいい。欲を言えば、全体にフラットで赤松と白樺の林かなんかでセパレートされていれば最高だ。
富士山麓のなだらかな地形に広がる「鳴沢ゴルフ倶楽部」はそんな我が儘な条件をすべて満たしてくれる。標高1100mに位置し、甲府盆地が茹だるような灼熱の真夏でも爽快なゴルフが楽しめる。もっとも冬の間は長いことクローズドであるが。料金面を除き、尚かつ夏期限定という条件付で言えば、私たちアベレージゴルファーにとって山梨県ナンバーワンではないでしょうか。
いつぞやは、ゴルフダイジェスト誌か何だったか忘れたが、日本の美しいゴルフコースランキングの上位に登場するなど、富士山を借景とするその美しい景観は、ゴルフをやっていて本当によかったと思わせる。
特に8番のショートは富士に向かってショットする美しい池越えの名物ホール。アウト、インとも最終ホールに大きな池がグリーン近くに横たわり、ことさら美しい景観を生みだしている。
もちろんこの他にも、清里、明野、甲斐芙蓉など、挙げだしたらきりがないほど山梨には素晴らしいゴルフコースがあります。徐々に「山梨のゴルフコース」なる企画でご紹介していけたらと考えております。


93位

武田信玄の信濃侵攻策の裏で甲斐善光寺の歴史が始まった

善光寺といえば信濃だが山梨にも「甲斐善光寺」

全国に善光寺と名のつく寺はたくさんあるが、おそらく一番有名なのは長野にある信州善光寺だろう。そしておそらく二番目に有名なのが、山梨にある「甲斐善光寺」だ。
信州善光寺の近辺では、武田信玄と上杉謙信が争った第2回目の川中島の戦いが行われた。その際に上杉謙信は、戦火からの仏像保護のため、善光寺の仏像を持ち帰っている。その仏像がおさめられているのが、新潟の十念寺(浜善光寺)だ。
その数年後に、武田信玄が、今度は善光寺の本尊を持ち帰って、現在の甲府に甲斐善光寺を開いた。これが「甲斐善光寺」の始まりである。
重要文化財の金堂は日本有数の木造建築で、撞木造り(しゅもくづくり)と呼ばれる特有の建築方法が用いられている。


92位

独特の風情を持つ石畳の小径は、絶好の散歩コース

300mに9つの寺が並ぶ「等々力寺町」

等々力寺町

旧甲州街道「勝沼宿」を東から西に歩き、等々力の交差点の北側に踏み入ると、葡萄畑の合間を縫って山門が並び、およそ300メートルの間に9つの寺を発見できる。
情緒あふれる石畳の寺町小路「等々力寺町」である。
甲州市教育委員会によるインフォメーションには次のようにある。
‥‥天保三年(1646)、浄土真宗の古刹万福寺の山門と総門の間の参道両側に居並んでいた頭塔十二坊の内、九坊が浄土真宗東西分派の影響を受けて大谷派に転じ、独立して東の等々力原に移転、「坊主寺町」と呼ばれたのが寺町の始まりである。
移転当初は、寺町小路の南側に東から仙光寺、円成寺、光源寺、賢正寺、浄蓮寺、西教寺、慶専寺、報恩寺、専立寺の順で居並んでいたが、寛延二年(1749)二月、寺町より上がった火の手が東風にあおられ、綿塚境まで焼き尽くす寛延等々力大火が起こり、以後浄蓮寺が甲州街道側に、慶専寺と専立寺が道の北に移転再興され現在の寺町の菅田が生まれた。‥‥
そうである。



91位

山梨県の狭北地方には数多くの花の名所がある。中でもこの‥‥

南八ヶ岳「花の森公園」

南八ヶ岳「花の森公園」へは、「道の駅南きよさと」発のリフトカーで訪れることができる。
花の見ごろは4月から10月まで。園内には自然に近い状態の花がいたるところに咲いている。芝桜や菜の花など色鮮やかな花が、なだらかな斜面を埋め尽くす様は圧巻である。
展望台からは八ヶ岳の絶景を楽しめる他、要予約でプリザードフラワー、押し花、手作りこんにゃく、高原野菜の収穫、等を体験することができる。


90位

何故日本三奇橋に数えられるのかは、是非一度訪れて確認して頂きたい。

日本三奇橋「甲斐の猿橋」

日本三奇橋「甲斐の猿橋」

山梨には笹子峠を境に大きく二つの地域が存在する。地元の人は、「国中」(くになか)と「郡内」(ぐんない)という呼び方をする。東京に近い方が郡内だ。「猿橋」は、その郡内にある。
中央線の猿橋駅で降り、国道20号線を東へ1キロほど歩き、新新猿橋の手前の交差点を左へ入るとすぐにわかる。
車で東京方面から来る場合、上野原インターで下りて国道20号線を下ってくると、道路は常に渓谷の右側に位置し、ちょうど猿橋のところでクロスし、道路は川の左側に渡る。このクロス地点の渓谷に架かる橋が、日本三奇橋「甲斐の猿橋」だ。
渓谷は結構深い。川は「桂川」だ。石割山、三ッ峠、大菩薩、等々からの郡内の支流を束ね、この川は神奈川県へ入ると相模川となり相模湾に流れ込む。
橋の姿は今でこそわざわざ立ち寄らないと見ることはできないが、昔、中央線の鉄橋が橋と平行に架かっていた時は、列車の窓から深い渓谷と「猿橋」を臨むことができた。子どもの頃見た車窓からの一種荘厳な橋の姿は、今でも目に焼き付いている。



89位

その郡内出身で、まあまあの知名度を築き上げたタレント?が89位にランクイン!

元「文化放送の顔」的存在だった「小俣雅子」

小俣雅子は山梨県都留市出身の元文化放送アナウンサー、現在はフリーとなりエッセイストとしても活動している。小俣雅子は、山梨県が委嘱している「富士の国やまなし観光大使」に任命された。もっともこの観光大使、彼女の他に45人もいるらしいが。
今回このランキングに単独でランクインした存命中の人物は4名程である。なぜ小俣雅子をランクインさせたかについては、まあどうでもいいではないですか。


88位

大雑把ではありますがアウトドア関連をまとめて一括ランクイン!

登山/トレッキング/アウトドアレジャー/レイクスポーツ

例えば小淵沢で乗馬、八ヶ岳山麓でスキー・スノーボード、都留市鹿留でグラススキー、清里高原でパラグライダー・ハングライダー、数々の渓流沿いでのキャンプ・バードウォッチング、富士五湖でウィンドサーフィン・水上スキー・カヌー・フィッシングなどのレイク(ウォーター)スポーツ、富士川や笛吹川・桂川での鮎釣り、大菩薩嶺をはじめ山梨100名山での登山・ハイキング・トレッキング。
山梨の自然環境はありとあらゆるアウトドアスポーツを提供してくれる。


87位

冬になると松里の農家の軒下に、見事な簾状に柿が干される。

甲州市松里地区の冬の風物詩「枯露柿のすだれ」

松里の枯露柿すだれ

甲州市松里地区では高級特産品「枯露柿」の生産が盛んである。毎年11月になると、そこらじゅうの家で「枯露柿のすだれ」を見かけることができる。中でも有名な「岩波農園」は「恵林寺」の近くということもあり、シーズンの休日ともなると、アマチュアカメラマンや観光客で大いににぎわう。
枯露柿の語源は、柿を天日で乾かす際に、陽が全体にあたるようにころころ転がしたところからきている。枯露柿を乾燥させるのは、陽の光と甲州の空っ風だ。四方を山に囲まれた山梨は、冷たくカラッカラに乾いた空っ風が吹きおろす。
この風が、甘さのぎゅっと詰まった松里の枯露柿を生み出しているというわけだ。



86位

日劇ミュージックホールのギタリストが「楢山節考」で文壇デビュー

「深沢七郎」は生涯遍歴した。

深沢七郎は、1914年(大正3年)1月29日、山梨県東八代郡石和町市部(現笛吹市)に生まれる。「楢山節考」の著者として知られる作家であることはもちろんであるが、日劇ミュージックホールで演奏するギタリストでもあった。日川中学(現日川高校)1〜2年生の頃からギターを弾くことが好きだった深沢七郎は、1939年25歳の時に始めてのギターリサイタルを丸ノ内明治生命講堂で開く。この時、彼はクラシックギター奏者として日本で初めてナイロン弦を使用したらしい。そして1956年、彼が42歳の時、日劇ミュージックホールの楽屋で書いたりした「楢山節考」で中央公論第一回新人賞を受賞することと相成る。この賞の選者は伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫であった。
1960年46歳の時「中央公論」に発表した「風流夢譚」で皇族が処刑されるシーンを描いたことから非難を浴び各地を放浪する羽目となる。翌年には中央公論社長宅が右翼に襲撃される嶋中事件(風流夢譚事件)が起こった。
1987年8月18日、73歳で死去。遺言に従ってロックと自ら読経した般若心経をBGMに送られた。
「楢山節考」は、ふるさと境川の春日山がイメージされているという。


85位

大和の特産品は、京都にも優とも劣らぬ日本庭園の素材

甲州ブランドの筆頭「甲州鞍馬石」

茶褐色の色合いが味わい深い「甲州鞍馬石」は酸化鉄を含む花崗閃緑岩の転石で、甲州市大和町の鶴瀬、初鹿野地区で産出されるものです。
京都の「鞍馬石」と同じように庭園材に適していることから、「甲州鞍馬石」というブランディングで開発されてきました。「甲州鞍馬石」は、灯籠、飛び石、水鉢、沓脱石などに加工され、造園に用いられています。
大和庭石組合では毎年8月の第一土曜日、日曜日に庭石まつりを開催しています。


84位

南アルプスの雪解け水と、米作りへの熱い想いが、日本一おいしい米を生む

幻の武川米「農林48号」

幻の武川米「農林48号」

日本を代表するお米として全国に名を馳せる武川米、「農林48号」(通称ヨンパチ)は、古くから狭北地域で栽培されていました。その歴史をたどれば、武田家の始祖、武田太郎信義が自らの領地で収穫される米に「武川米」と名付けたのが始まりと伝えられます。
しかしながら「農林48号」は出穂期遅く、イモチ病に弱いことから、次第に作る人が減り、県の奨励品種からもはずされている状況でした。ところが近年、その食味の香ばしさ、冷めても味が劣らない米として、再び注目を浴びているわけです。
味、艶、香り、粘りと、すべてを兼ね備えたお米を作るためには、水、土、人と三つの条件が必要だと言われます。山梨県北杜市鵡川町には、南アルプスの石英の中で研ぎ澄まされたミネラルを豊富に含んだ雪解け水、砂質壌土の豊かな栄養を含んだ土、そしてどこにも負けない米作りへの情熱を持つ人々がいます。
武川村でしか生産されていないため「幻の武川米」と呼ばれる「農林48号」。
毎年この稀少な米を求めて、11月に開かれる「むかわ米米まつり」に、全国から多くの人々が訪れます。



83位

今年の春こそ400才になる彼女のポートレイトをこの手で撮りに行きたい。

樹齢400年のエドヒガンザクラの変種「神田の大イトザクラ」

ヤフーで「神田の大イトザクラ」を検索すると464件がヒットする(2007.1.18現在)。そのトップに表示される小淵沢町観光協会の「こぶちざわどっとこむ」の解説によると、「神田の大イトザクラ」は、
‥‥根廻り8m ,枝張り20m余り、樹齢400年のエドヒガンザクラの変種。県内でもまれに見る巨木で樹形も良く県の天然記念物に指定されている。4月中旬から下旬が見頃で毎年見物客で賑わう。田圃の真ん中に位置し、八ヶ岳をはじめ周辺の景観は素晴らしい。昭和34年山梨県の天然記念物に指定されている。‥‥
ということである。
筆者、実際に見たことがなく、記事が人任せになってしまい恐縮です。今年の春こそは、必ずわたくし自ら撮影する渾身の肖像写真(またも擬人化しています)をどこかにアップさせていただき、少しでも小淵沢町観光協会のお役に立てればと考えております。
ついでのようでまたまた恐縮ですが、この場を借りて小淵沢町の見所をもう一つご紹介致します。環境庁の名水百選に指定されている八ヶ岳南麓高原湧水群「大滝神社下の大滝湧水」、春にはここのご報告ももちろんさせていただきます。


82位

大善寺と長谷寺の僧徒の間の山伏問答騒動が由来とされる

春日居町御室山の「笈形焼き」と大善寺の「鳥居焼き」

大善寺の「鳥居焼き」

春日居町御室山では、毎年4月、第1土曜、日曜日に、櫛形焼きが開催される。一方で、勝沼大善寺では鳥居焼きが10月第1日曜日に行われる。
春日居町の笈方焼きの炎でかたどった笈は一辺400mにも及び、日本一を誇る。
昔、勝沼にある大善寺と、長谷寺の僧徒の間で山伏問答がこじれ、争いになった時に、大善寺の僧は山梨岡神社の鳥居を持ち帰って焼きはらい、長谷寺の僧は柏尾の笈を持ち帰り焼きはらった。それから御室山では、「笈形焼き」を、大善寺では「鳥居焼き」を、行うようになったと言われている。



81位

乙女高原のレンゲツツジについて調べていたら、乙女高原ファンクラブの存在を知った。

亜高山性高茎草原「乙女高原」と「乙女高原ファンクラブ」

長野との県境にそびえる金峰山の南側、巨峰の産地で名高い山梨市牧丘町の北側に位置する「乙女高原」どう見ても山深い位置ではある。焼山峠付近からグリーンロッジにかけて「レンゲツツジの群落」があるらしい。「らしい」というのは正直行ったことがないのである。だからこの「レンゲツツジの群落」について、「満開の風景は見事としか言いようがない」などと書けないでいる。
そうこう調べている内にたどり着いたのが、「乙女高原ファンクラブ」公式サイトというやつだ。このファンクラブの活動を見ると「乙女高原の自然」がいかに素晴らしい物であるかが、よーくわかる。例えば「亜高山性高茎草原」と呼ばれる性格のお嬢さん(勝手に擬人化してみました)であるようだ。「乙女高原」というネーミングにも、いかにもファンクラブが結成されそうな響きがあるではありませんか。
今回は乙女高原の自然もろとも、このファンクラブもランクインしてしまいましょう。
よろしかったらファンクラブに入会しちゃいませんか。


80位

不動滝までは竹宇駒ケ岳神社から2時間ほどで辿り着ける。ちょっとしたスペクタクルだ。

千ヶ淵のエメラルドグリーンに感動する「尾白川渓谷」

尾白川渓谷「千ヶ淵」

甲斐駒ヶ岳の伏流水を、甲州街道白州台ヶ原宿方面に運ぶ「尾白川」は、台ヶ原宿の先で甲州街道を横切り、信濃の水を集める「釜無川」に流れ込む。「釜無川」はそのまま甲州街道と共に甲府盆地に下り、その先で秩父山地に端を発する「笛吹川」と合流する。そしてたおやかな流れ「富士川」となる。「富士川」はさらに南下を続け、日蓮の信仰の道「身延道」とともに駿河に辿り着く。その先は言わずと知れた駿河湾、太平洋である。
かなり前置きが長くなったが、その「尾白川」は、幾重にも折れ曲がり、滑り落ち、滝、淵、清流、岩壁、せせらぎと見事な渓谷美を魅せてくれる。「尾白川渓谷」である。
甲斐駒ヶ岳への登山口となる竹宇駒ケ岳神社から尾白川渓谷道へと入ることができる。まず最初のに辿り着く「千ヶ淵」と呼ばれる淵で、息をのむ程のエメラルドグリーンに出逢うことができる。澄み渡った清流とそそり立つ岩壁は壮観。尾白川渓谷道の終点、不動滝までは竹宇駒ケ岳神社から2時間ほどでたどり着ける。ちょっとしたスペクタクルである。



79位

後継者不足から存続の危機にあった伝統芸能が2006年3月、十数年ぶりに復活を果たした。

大月市で唯一の県が指定する無形文化財「笹子追分人形芝居」

本格的な公演は実に十数年ぶりという「笹子追分人形芝居」が、2006年3月18日大月市民会館大ホールで復活を果たした。
大月市笹子町に伝わる追分人形芝居は、江戸時代に淡路(兵庫県)から伝わった人形浄瑠璃。甲州街道の難所「笹子峠」越えの前夜、宿場町「笹子」で旅人は人形芝居を楽しみ、翌朝の峠越えのために旅の疲れを癒し鋭気を養った。といわれる。
実際に見に行けない方々のために、「笹子追分人形芝居」の保存活動に参加している方が運営するサイト「ふるさとは笹子町」をご紹介致しましょう。
「笹子追分人形芝居」の貴重な写真付き解説や「人形遣い修行記」も読むことができます。


78位

勝手に制定!「やまなし5大紅葉スポット」

「早川渓谷」と重要伝統的建造物保存地区「赤沢宿」

早川渓谷は富士川と早川が合流する身延町下山、飯富から南アルプスの登山口である広河原まで続く比較的広く、数々の滝が流れ落ちる美しい渓谷であります。
今なお雄大な自然が残り、紅葉の見頃には木々が赤や黄色など色とりどりに染まり、川も山もこの上なく美しい山梨を代表する渓谷であります。
国の重要伝統的建造物保存地区に選定されている「赤沢宿」は、日蓮宗の総本山である「身延山」と霊山「七面山」をつなぐ道中にある宿場集落です。けわしい山々と渓谷、そして壮大な樹林に囲まれながら江戸時代の面影を残す旅籠が立ち並ぶ様を、実際に見に行けない方々のために、赤沢宿に関わる人々がよってたかって書いているブログ「赤沢宿"よいしょっと"」をご紹介致しましょう。
「赤沢宿」のすべてが手に取るようにわかります。


77位

光のファンタジーがあふれる甲府駅南口周辺のウィンターナイト

「光のピュシス」と「ナイトジュエリー甲府」

このイルミネーションのファンタジー、舞鶴城の「光のピュシス」と甲府駅前の「ナイトジュエリー甲府」は、平成9年から甲府駅南口周辺で行われているらしい。そうするともうかれこれ10年の歴史ではありませんか。
「駅前に立体イルミネーションが灯り、幻想的でロマンティックな雰囲気を演出します。甲府駅前の冬の風物詩として県内外の人たちに親しまれています。」と説明されていますが、甲府に行くことはあっても最近はほとんど車で出かける私どもにとりましては、夜の甲府駅前周辺ときたら下手したら10年以上ご無沙汰かもしれません。
イルミネーションは11月23日から年を越して2月14日まで毎日楽しめるそうです。



76位

摩利支天の祠の脇に落ちていた「わらじ」の伝説

巨大わらじを祀る「隼の大わらじ」

昔、牧丘の隼(はやぶさ)地区に疫病が流行ったときに、どこからかやってきた僧侶が祈祷をし、疫病を治めた。村人がお礼を言おうとしたときには、その僧侶はもう居なかった。名前も告げずにいつの間にか去っていたのである。
そんなときに、ある村人が、摩利支天の祠のそばにわらじが落ちているのを見つける。
「これは、あの僧侶が落としていったものに違いない」と思い、わらじを祀ったのが始まりとされている。
奉納されるわらじは、長さ2メートル、幅1メートルもの巨大なもので、日本最大級のわらじ。
毎年3月に奉納される。


75位

武田家発祥の地が韮崎なら、武田家終焉の地は甲州市田野である。

武田家ここに眠る、天童山「景徳院」

天童山「景徳院」

天正十年(1582)3月11日、織田、徳川連合軍に追い詰められた武田勝頼は、約50人の家臣とともに激戦の末、ここ甲州市田野の地で自害したとされている。
こうして武田家の歴史が幕を閉じた直後同年7月、徳川家康公入国の際、家康が勝頼の死を弔うため、家臣尾畑勘兵衛に命じて建立させたのがこの寺、天童山「景徳院」である。
境内には勝頼公、北条夫人、勝頼の嫡男信勝公が自害した生害石があり、甲将殿の裏には勝頼公をはじめ将士の墓がある。
この田野(通称天目山)の戦いにおいて、勝頼公一族に従容として自刃する時を与え、自らも27才にして自害して果てた「片手千人斬り」の武勇伝を持つ武将がいる。「土屋惣蔵昌恒」である。
たった四十余名という手勢で田野より先の天目山「栖雲寺」を目指した武田勝頼一族であったが、織田、徳川連合軍に行く手を阻まれ、大蔵沢より先に進むことができなくなり田野の郷に引き返す。この時、惣蔵は主君の危機を救わんと最も崖道の狭い所で岩角に身を隠し片手は藤蔓につかまり、片手には刀を持ち、迫りくる敵兵を次々に切っては谷川に蹴落したと伝えられる。次から次へと蹴落とされた屍の血を飲み込んだ谷川の水は、三日間もの間、血で赤く染まり、川はいつか誰が呼ぶともなく「三日血川」と呼ばれる。
「三日血川」(みっかちがわ)は、その後いつしか「三日川」(みっかがわ)となり、いまでは「日川」(にっかわ・ひかわ)と呼ばれている。
武田家とともにいくつもの伝説が眠る、天童山「景徳院」である。



74位

今では、山梨県下で唯一残されている伝説の大念仏

発祥の一説は「雛鶴姫伝説」にまつわる「無生野の大念仏」

国の重要無形民俗文化財である「無生野の大念仏」(むしょうののだいねんぶつ)という民俗芸能を語る前に、山梨県上野原市秋山村無生野に伝わる「雛鶴姫」の伝説についてふれておきたい。
南北朝時代のこと、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良(もりよし)親王は、南北朝対立の中、足利尊氏に捕らえられ鎌倉の土牢に幽閉された末、殺される。その幽閉の折すでに親王の児を身籠もっていた雛鶴姫は、亡き親王の首級をいだいて鎌倉を逃れた。秋山村無生野の里にたどりついた雛鶴姫は、そこで王子を産みおとすが、不運にも王子ともども命を落とす。その薄幸に涙した秋山の村人はぶち沢に墓碑塚を築いて弔ったと云われる。
そしてその秋山村無生野に伝わる民俗芸能「無生野の大念仏」は、護良親王の王子、綴連(つづれの)王が、護良親王と雛鶴姫の追善供養のために始めたものと伝えられている。
伝説の話しはともかく、「六斎念仏」または「踊り念仏」とも言われるこの踊りは、毎年小正月と盆の16日に、年番当役の家に設けた道場で、阿弥陀、不動明王、十六善神の掛け軸を掲げ、灯明を点じ、塩、砂、供え物をしてしめ縄を張り、かねや太鼓を激しく打ち鳴らす中、白装束に太刀、棒、太鼓を持った踊り手が、念仏を唱えながら「一本太刀」「二本太刀」「ぶっぱらい」の三種を踊り回る。
山梨県内では山中湖村平野をはじめ、広く大念仏が分布していたが、今ではすべて滅び去ってしまい、この「無生野の大念仏」が、県下で唯一伝承されている大念仏であります。


73位

武田信玄の六代前の当主、武田信満の墓を擁する

天目山「栖雲寺」と、その裏山の「巨石自然庭園」

天目山「栖雲寺」と巨石自然庭園

栖雲寺は、南北朝時代の貞和四年(1348)に業海本浄和尚の創立した禅刹で、中世禅文化の豊庫ともいわれている。業海は文保二年(1318)に元の国に渡り中峯普応国師に師事し、元の天目山で修行して帰国後武田家の招聘によりこの寺を開いた、という。以来、武田家の信望が厚く境内には信玄から数えて六代前の武田家当主、「武田信満」の墓がある。
その他、重要文化財の「普応国師の座像」をはじめ、県指定文化財の「業海本浄和尚木像」、「地蔵菩薩崖仏」など多くの文化財がある。
「栖雲寺銅鐘」もまた山梨県指定文化財。中世期に造られた古い貴重な鐘で、久遠寺鐘(身延町)、広厳院鐘(笛吹市)、放光寺鐘(甲州市)、永昌院鐘(山梨市)とともに「甲斐の五鐘」の一つに数えられる名鐘である。延文四年(1359)大工の沙弥道金によって栖雲寺において鋳造されたと伝えられている。
庫裏右手に回ると「武田信満の墓」の裏山の「巨石自然庭園」を散策することができる。この自然の石庭は、寺域の北東部に拡がる花崗閃緑岩地域の一帯で面積約二ヘクタール、大小の岩塊が累々と横たわり、禅僧の修行の場として使われていたそうである。
その「巨石自然庭園」の中心は北部の三尊石で、近く発する涸流れをややくだった中ほどの鯉魚石は天を衝く気迫をみせ、ほど近い南東方に蓮は須弥山があり山を囲む列石が弧状をえがいて九山八海に見たてられるなど仏教の世界観に通ずるものがある。多くの岩魁の間に「地蔵尊」や「文殊菩薩の線彫り」の磨崖仏が拝され、巨大な霊石泉、忿怒石、開山座禅石などもある。卓越する甲斐の庭園文化の中にあって一類型ともみられる代表的な大規模の遺構として評価される。



72位

日本武尊の一言「富士には北側より登拝するのが良い」の伝説

富士山吉田口登山道の起点「北口本宮富士浅間神社」

「北口本宮富士浅間神社」は、富士の裾野、富士吉田に位置し、社殿右後ろにある鳥居から富士山頂に向かう富士山吉田口登山道の起点となっている。
御祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。御神木の太郎杉は、幹周り8mもの太さを持つ大木で、県指定の天然記念物である。
社伝によれば、110年、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方遠征の折に、大塚丘より富士山を遥拝し「富士には北側より登拝するのが良い」として、祠と鳥居を建てたのが始まりと云われている。また垂仁天皇の代に、富士山の大噴火を恐れる人々の心を静めるために勅令をもって火山鎮護の神、木花開耶姫を祀ったとする説もある。
武田信玄公の父君信虎公が大永2年(1522)に富士登山した折りはここから出発した、らしい。
元和元年(1615)、谷村城主鳥居土佐守成次が現在の本殿を建立。本社殿は桃山時代の高荘な建造物として重要文化財に指定されている。 8月26日、27日には日本三奇祭のひとつ「吉田の火祭り」が行われる。


71位

女装の若者が獅子頭を被り舞う南アルプス市の無形民俗文化財

伝承厄払い行事は新年の風物詩「西南湖の獅子舞」

西南湖の獅子舞

明治二十年頃に道祖神祭の厄払い行事として始まった「西南湖の獅子舞」は、後継者不足で存亡の危機に見舞われながらも、西南湖獅子舞保存会の手によって現在に受け継がれている。
毎年1月の第2土曜日に、去年一年で成人、結婚した者、新築した家、厄年に当たる人が居る家等を回り、保存会の面々がその家の庭で浄瑠璃をうたいあげる中、座敷で獅子舞が舞われる。
当初、獅子舞は女獅子の平舞だけだったが。その後、年を重ねるにつれ、鳥刺し踊り、梵天舞や厄舞、狂い獅子、お亀など踊り方は増え、現在は、保存会が、平舞、三段舞、梅川忠兵衛、八百屋お七の四種類を伝えている。



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